今の宮本浩次が歌う「デーデ」

先月、エレファントカシマシのライブDVDと3枚のベストアルバムが発売された。
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「桜の花舞い上がる武道館(初回盤)」はオリコンのDVD音楽週刊ランキング・2009年9月28日付で4位に入り、最新の2009/10/05付でも18位とTOP20を保っている。
下の3枚のベストアルバムは所属レコード会社別になっていて、エレファントカシマシの変遷をダイジェストするにはとても良いアルバムだと思う。

私は今週になってようやくこれらの4作品を視聴し始めているのだけれど、「創世記」に収録されている「デーデ」の一節

友達なんかいらないさ 金があればいい

について、今の宮本浩次(以下、みやもっさんと呼ばせて下さい)はどのように捉えているのかな?と思った。

そもそもこの「デーデ」と言う曲は、みやもっさんが10代後半の思春期まっただ中に作った曲で、未成年の若者に常識や理想や協調を説く大人達が作った社会は結局のところ「金と独善に支配されていること」を指摘し、そこに身を投じることへの抵抗感を歌った曲のように今の私は勝手に解釈している。

社会に出て金と独善に支配される事への抵抗感が「友達なんかいらないさ 金があればいい」という皮肉に込められているのではないか?と深読みしているのだけど、3度目のレコード会社移籍でライブ動員も作品の売り上げもメディアの露出も格段に増え、ラジオの生放送でパーソナリティの言葉にカッとなっても(自発的にせよ周囲の人からの助言にせよ)直筆の謝罪文を出して「大人の対応」を見せた今のみやもっさんは「友達なんかいらないさ 金があればいい」という一節をどんな風に捉えているのだろう?
私はファンクラブにも入っていないし、エレファントカシマシが出ているメディアもほとんど観ないし、ライブ中の発言とかたまに観るHPや動画サイトのインタビューでしか判断できないけれど、このところのみやもっさんはとてもフレンドリーで周囲に対しての感謝を述べるし、私が見始めた12年前から3年前ぐらいまでのステージ上のピリピリとした空気が、厳しくも和気藹々とした雰囲気になってきているなぁと感じている。最新のオリジナルアルバムは歌の内容も自らを励まして奮い立たせるものや親しい人への愛を歌ったものになった。

みやもっさんはもともと「社会に認められ、結果として売れること」に並々ならぬ情熱を抱いているのは感じていたが、今年のインタビューにおいて「自分は歌係」と発言しており、私はそこに「社会の一部分を担っていることへの自負」と「他人と関わることへの肯定意識」があるように思えた。

それは「デーデ」で歌ったと私が解釈している「お金と独善に支配される事への抵抗感」とは真逆のように思えてならないのだ。

今のみやもっさんは昔自分がつくった「友達なんかいらないさ 金があればいい」を、どう捉えているのだろう?どんな気持ちで歌っているのだろう?みやもっさんが若き頃に抵抗し孤独を感じた社会は、43歳の中年となった今、どのようなものになったのだろう?

直接質問する機会のない今の自分には、次に出るエレファントカシマシの楽曲をCDやライブで聴いて、歌に込められた想いを勝手に解釈するしか出来ないのだけれども。